今はもう亡くなった友人グスティ・スマルサとその仲間の話。彼と知り合ったのは1983年、東京だった。彼はその時バリからの影絵芝居ワヤン一座のメンバーとして来日していた。一座のリーダーは当時売り出し中の人気人形遣い、スカワティ村のウィジャさんだった。
 スマルサはその頃バリで日本語ガイドの仕事をしていたので日本語が流暢だった。それで影絵上演のとき通訳兼MCを担当していた。彼はウィジャさんを日本の聴衆に紹介するとき「ウィジャさんは自分で人形を作ります。それも気持ちのいいとき少しだけ仕事します。あせって根を詰めてもいい人形は出来ません」と言うのだった。
 私はその「気持ちのいいとき少しだけ」というスマルサの、ちょっとおどけながら話す口調がえらく気に入った。そして「そうだ。バリ人は正しい!仕事はあくせくやるもんじゃない。気持ちのいいときちょっとだけやればいいんだ!」と都合のいい極大解釈をして悦に入っていた。
 その後私はバリ島に留学し、実際にウィジャさんやスマルサの暮らしぶりを身近に見ることになる。
 ウィジャさんの仕事である影絵芝居の上演は当然夜である。昼間は大抵家にいる。遊びに行くと確かに軒先で影絵の人形を作っている。
 人形を作りながら彼専用のお茶を飲み、ぼそぼそと私に語りかける。
「今日はコカール(国立芸術高校、当時デンパサール市内にあった)に教えに行く日なんだけどサボっちゃった」と言う。
「え?大丈夫なの?仕事でしょ?」と私が言うと
「うん。でも気持ちがよくないから。行かない...」(これかあ!?スマルサが言っていたあれは!)
「ああ...そうなんだ」
しばらくすると家の奥で電話の鳴る音がする。
「やれやれ。多分学校からだ」
ウィジャさんは怠そうに立ち上がると家の中に入っていく。数分後外に出てきた。
「やばいなあ。またスマンディ先生(影絵芝居学科主任)に怒られた」
「なんて?」
「ウィジャ!何してる?もう授業始まってるぞ!だって」
「じゃあ行くの?」
「ん、行かない....」(すげえ!これで大丈夫なのかあ?)
私は心配しながらもこのバリ人の筋金入りの怠惰に心から感動したのだった。もっとも、ウィジャさんは芸能人だ。これくらいは当前かもしれない。
 一方、スマルサの方はどうしていたかというと。 <つづく>
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1983年7月 芝増上寺にて
Bpk.Wija(左から3番目)・Bpk.Sumarsa(左から4番目)・Bpk. Minagawa(右端)